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- 女将の細腕繁盛記
私は、東京都の目黒区で生まれ育ちました。
子どものころは大人しくて、両親の言うことをよく聞く女の子だったように思います。
私が高等学校を卒業しました当時は、洋服にも既製品というものはなく、 すべて自分たちで作る時代でございましたから「将来、内職をしたり、 子どもたちの洋服を縫えるように」という母の薦めもあり、 目黒の杉野ドレスメーカー女学院に進学いたしました。
それから2年後、女学院を卒業する頃になって、 山梨の主人とのお見合いの話が持ち上がったのでございます。私の実家も商売をしていたものですから、 両親は長女である私を「商売人のお家へ嫁に行かせたい」と考えていたようです。 しかし、私はどうしても「外へお務めに出たい」と考えていたものですから、 対立することもしばしばございました。
でも、主人と出会った瞬間に「この人のところへなら行ってもいいかしら」なんて、 気持ちも変わってしまったんです。主人はこのころから、洋服の着こなしもおしゃれで、 とっても粋だったんですよ。
半年の交際期間のあいだも、しょっちゅう東京へ遊びに来ては、銀座に出たり、 映画を観たり、ふたりであちこちへ出かけました。 石和の母から「謙一さん、いい加減に帰っていらっしゃい」なんて電話があるまで、 一週間、泊まっていたこともあったほどでした。
電車で移動したときも、素敵なんですよ。新宿駅で投げキッス(笑)。
母が買って下さった指輪を「これ、たのまれたよー」なんて、ポーンと投げてよこしたり、
そんな飄々としたところも気に入りましたし、母も良い人だったものですから、こちらへ嫁いでくることに決めました。
主人が26歳、私がちょうど20歳のときでございました。
父が開いてくれた結婚式は、招待客も多かったものですから、2回に分けて行われました。 仲人をして下さった山梨中央銀行の頭取さん、それから当時の町長さんが、 「こういうところにお嫁に来たからにはしっかりしなければいけない」 「これだけのお家に入られるということは大変なことです」と、お上手な葉でご挨拶して下さったんです。
それまでは、とにかく「主人のことが気に入ったから」という気持ちだけで、 自分がどんなところへお嫁に来たのかもきちんと理解できていなかったものですから、そのお言葉はたいへん心に染みました。 ああいうお言葉は本当にありがたいものですね。今でもしっかりと頭に焼き付いております。
そんな、20歳の世間知らずの娘が、親元を離れていきなり老舗へ嫁いで来たのですから、
その後の苦労は想像に難くないと思います。
そのころの「糸柳」は、今の半分くらいの規模でしたけれど、石和では有名な料理屋でございました。
当時も宿泊はできましたが、どちらかといえばお料理のほうが中心で、地元のお客様の宴会を中心に請け負っておりました。
毎日、昼でも100人から200人の宴会が入りましたし、行事といえばおにぎりが300個、
結婚式があればお赤飯を炊いて200人前以上折に詰めたり、お料理を作ったり。
このあたりには、まだお寿司屋さんなどもなかったものですから、
お正月といえばお寿司の出前が100人前以上出たこともございました。
夜が明けるまで準備に追われたこともあったほどで、とにかく目が回るような忙しさでございました。
お嫁に来てすぐのころは、母から「あなたはお店に出なくてもいいですよ」と言われていたものですから、
母の言いつけどおり、ずっと裏方のお仕事をして参りました。
宴会のときの私の仕事は、お銚子の係。当時は酒燗器なんてございませんでしたから、
お酒を手でつけていたんですね。「全部一気につけると味が悪くなる」と母が申しましたので、
10本くらいずつ温めては、注ぐということのくり返しでした。
そのころはひとり2本以上はお酒を召し上がりましたから、
100人の宴会として一日に200本から250本。ただひたすら、それを繰り返しておりました。
店には、仲居さんは大勢いましたけれど、今みたいに洗い子さんはおりませんでしたから、
忙しいときは近所の奥さんたちに声をかけてお手伝いしてもらいながら、私も毎日洗いものをしておりました。
その頃が一番、里へ帰りたかったですね。どんなお仕事でも慣れるまでは大変なんでしょうけれど、
山積みの食器を洗いながら「ずっとこんな毎日だったら仕方ないな」って途方に暮れてしまったこともございました。
ある日、父から頼まれておにぎりを握ったことがあったんです。その時は何も言われなかったのですが、 父と母がお台所で「奈津子の握ったおにぎりは塩をつけたのかな。お新香も入ってなかったよ」って、 噂話をしているのを聞いてしまったんですね。そのときは本当に「つらい!」と思いました。 直接怒られることはあまりなかったですけれど、そういうことは今でもしっかりと心に残っています。
そのころの主人は、毎日遊ぶのに忙しかったようで(笑) 私の愚痴を聞いてくれることはありませんでしたけれど、遊びには良く連れていってくれました。 ふたりで、甲府のキャバレーへ出かけたこともあったんですよ。 私みたいに、なんにも知らない人があちこちに連れて行ってもらったわけですから 「こういうところもあるんだなあ」ってずいぶん勉強をさせてもらいました。
そういうとき、主人は急に「さあ、行こう!行こう!」なんて言い出すものですから、 あわてて、あれ着て、これ着て、なんてお洋服を選んで、お部屋を散らかしたまま出かけるわけですよ。 そのあとの部屋を母が見て「だらしないですよ」って叱られたり(笑)
「障子をきちんと閉めなさい」「毛布をまっすぐ干さないとだらしないですよ」なんて、 たくさん叱られましたけれど、いい母でしたね。そのとき叱られたひとつひとつのことが今でも大変役に立っております。
母はとても物静かな方でしたから、周囲からは気難しい人だと思われていたみたいです。 「糸柳さんのお嫁さんは、いられるかな」と、地元の方から言われたこともありました。 でも周りが心配するほどでもなくて、とても良い母だったんですよ。 アクセサリーひとつ持っていなかった私に、 イヤリングや真珠のネックレスなんかふらっと買ってくれたりね、とても優しかったんです。
そうこうして12年ほどが過ぎたころ、大変なことが起こりました。 突然、母が倒れてしまったのです。 母はまだ58歳。私もやっと32歳になったばかりでございました。
このときの私は、ちょうど次男が生まれたばかりで、長女と長男、3ヶ月の次男と、 3人の小さな子どもを抱えておりました。そのうえお店もありましたから、どうしたらよいのやら、 とにかく忙しくて、自分たちのお布団もたためないような日々が続きました。
若かったですから、もう無我夢中でしたよね。 母のことも、最初は家で交代で看ておりましたが、商売の方もありましたし、 主治医の先生に勧められたこともあって、石和の温泉病院のほうへお世話になることにいたしました。
そんな状況でしたから、子どもの事はまったく構ってあげられないまま、
3人とも自分たちの力で大きくなっていったような気がいたします。
長女と次男は割と大人しくて聞き分けも良かったんですけれど、
長男(現社長)は、神経質で、面倒を見てくれる方に預けてもつい戻ってきちゃうんですよ。
金魚のお池まで作って遊ばせてくれるようないいお家だったんですけど、帰って来ちゃうんです(笑)。
叱ろうと思っても、はしっこくてベットの下に逃げちゃったりするもんですから、
あんまり口うるさく怒ることもしなかったですね。
そんな状況で、みんな良く育ってくれたなあと、今でも感心してしまいます。
ただ、お店で接客をしていたときに、まだ幼かった子どもたちがお店に来て 「ママ」って私の足元を引っ張ったことがあったんです。 そうしたら、父から「躾が悪い!」って怒られて。まだ小さい子どもなのに、 なんでそんなこというのかしらって、そのころはずいぶん父を恨みしたね。 父は、子どもは嫌いではなかったんでしょうけれど、商売が第一だったからでしょうか。 「お前は行儀が悪い」と、子どもたちを叱っているのを見るのは自分が怒られるよりもつらくて仕方なかったです。
父は昔の人でございましたから、いろいろと浮いた噂も絶えませんでしたけれど、 芯では母を大切にしていたと思います。母が寝たきりになってからも 「俺はね、おかあちゃんのこと一生懸命面倒みるよ。最後までなんとか見届けるから」と、 よく口にしておりました。でも、そう言っていた父の方が先に亡くなってしまったんです。 母が寝たきりになって7年後の72歳、ガンによるあっという間の死でございました。
それから14年後、風邪で息をひきとるまでのあいだ、母は寝たきりの状態で21年間を過ごしたことになります。
若い時分は、父の放蕩ぶりに苦労させられながらも、一生懸命働いて、
これからおしゃれな着物を着て楽しんで…という矢先に倒れてしまったのですから、
いま考えても、母はかわいそうだったと思います。
たとえ病人であっても、母がいてくれれば皆が元気でいられるというか、
うちのことが丸く治まるような気がしておりましたから、亡くなったときは本当に悲しかったですね。
一緒にお仕事できたのはたった10年間。普通であれば20年くらいは一緒にいられたのに。
とても綺麗で優しい母でしたから、もう少し元気でいてくれれば、と今でも思います。
母が亡くなってから、自分たちの力ではどうにもならない問題が生じました。 それが解決するまでの7~8年間は、それはそれは言い尽くせない大変さでございました。 「どうしてこんなことになるのかしら」と、もどかしい気持ちばかりでしたけれど、 そんなときに実家の母が「なるようにしかならないわよ、奈津子さん」と声をかけてくれたんです。 そう考えると肩の力が抜けて、ずいぶん楽になれるような気がしました。 いくら努力しても、考えても、なるようにしかならないこともある。 その後も、なにか行き詰まる事があると、この言葉を思い出すことがございます。
そうした諸問題が解決しまして、建物の改築が無事終わったころには、
時代もだんだんと変化しておりました。近代的な結婚式場ができたり、
あちこちに新しい旅館やお店がオープンしたり、収入の面でも当初の計算通りには進まなくなっていたのです。
「老舗・糸柳」の名のおかげで、お客様の足が絶えることはありませんでしたけど、
それだけでは何かが足りない、基礎的な部分からきちんと勉強をしたい、と感じるようになっておりました。
そんなころ、あるコンサルタント会社とのご縁もございまして、糸柳全体を変えるべく、 身近なことから努力を重ねるようになりました。 まずはじめに変えたことは、私たちや従業員の気持ちの面から、明るくなる、皆が元気になる、 これまで以上にまごころを込めてお客様に接すること。 それと同時期に、修行に出ていた長男(現社長)に戻って来てもらい、 若女将をお嫁に迎えたのを機に、若いふたりに糸柳を引き継ぐことにいたしました。 「まだ早い」という声もございましたけれど、主人は社長のことをたいへん信頼しておりますし、 いま思えば案外良かったんじゃないかしらと思います。
今の社長の代になってからは、私も毎日、着物を着るようになりました。
主人は昔から着物が嫌いで、着ていると「脱ぎなさい、脱ぎなさい」って言われてしまったんです。
ですから、それまで着物は着ておりませんで、最近になって着付けを覚えたくらいでございました。
でも、今考えてみたら主人は着物が嫌いというわけじゃなかったかもしれませんね。
動きづらい着物で仕事をさせて、私が苦労したらかわいそうだと思ったんじゃないでしょうか。
主人はとにかく優しい人ですから、そんな気がいたします。
主人も病気になる前まではよく出歩いておりまして、若いころは、それはそれは賑やかでございました。
もちろん、嫌になったこともありましたよ(笑)
でも、主人は本当に優しくて、仕事と家族のことしか考えていないような人ですし、
それは伝わっておりましたから、本当に嫌いになったことはなかったように思います。
普段もほとんどケンカはいたしません。ただ一度だけ、昭和47年か48年ころだったでしょうか。
大ゲンカをして里へ帰ってしまったことがありました。
ケンカのきっかけは「お前は字が下手だ」と言われたこと(笑) ご自分は字がきれいだからって…と思ったら悔しくて、悲しくて、 夜が白々と明けたころに電車に飛び乗ってしまいました。 そういうとき、主人は迎えに来ないんですよ。いつまでも放ったらかし(笑) 実家で一週間くらい過ごしたころ、母から「電話しておいたから帰りなさい」と諭されて、 何も言わず家に帰りました。
実家へ戻っているあいだに、駅で偶然、地元のお友達に出逢ったことがあったんです。
それを母に話したら「だったらお友達に相談すればよかったじゃない。
そういうときは、話して聞いてもらえばいいのよ」なんて言われたんですけれど、
そんなことも思いつかなかったんですね。そのくらい、普段は嫌なことがなかったんだと思います。
お店の常連さんだった駅員さんからキップをもらって、それで電車に乗って行ったんですけど、
泣き顔も見られちゃったし、いま考えてみたら恥ずかしいような話ですね。
大きなケンカはそれが最初で最後です。
実は、私と主人は今年で結婚50周年、金婚式を迎えます。
今も年中、ふたりで食事へ出かけたり、お友達と一緒に旅行へ出かけたりしております。
おかげさまで、たいへん幸せでございます。
「糸柳」のほうは、社長と若女将が中心に取り仕切り、
私たちは若いふたりの相談相手という形で関わっております。
それから、毎日、お出迎えとお見送りの時間には、お客様にご挨拶をさせていただいております。
「また来たいです」「良かったですよ」なんて声をかけていただけるのが、何よりも嬉しいですね。
これも、従業員みんなのおかげだなと思ったり。
反対に、お客様からご指摘を受けたときは悲しいですけれど、
ご意見を真摯に受け止めて、毎日の励みにしたいと思っております。
料亭から温泉旅館へ、時代とともに「糸柳」は大きく変化してまいりました。
主人と私は、ちょうどその過渡期に携わってきた事になります。
石和で生まれ育った主人は、この地を心から愛しております。私にとっても、50年間を過ごした石和温泉はもはや故郷と同じです。
石和の街は、昔に比べてたいへん素敵になりました。
来年くらいには駅がもっと広くなり、ロータリーのところにはお土産やさんもできるなど、さらにキレイになる予定です。
これからの石和温泉、そして「糸柳」に、夢や希望はたくさんございます。
しかし、慌てず、いまできる事を一生懸命こなしながら、お客様にもっと満足していただきたいと願っております。
また、家族や従業員が一丸となって「糸柳」がよりよい宿になるように、石和の街がさらに発展していくように、
一層の努力を重ねて参りたいと思っております。


















